エミール・ゾラ
 「アレクシとモーパッサン」(抄訳)

Émile Zola, « Alexis et Maupassant » (partie),
le 11 juillet 1881



(*翻訳者 足立 和彦)

エミール・ゾラ 解説 1881年7月11日、日刊紙『フィガロ』 Le Figaro に掲載された、エミール・ゾラによる、モーパッサン批評。(repris dans Une campagne, 1882.)
 『居酒屋』、『ナナ』のスキャンダラスな成功によってゾラは名声を確立するが、さらに1880年『メダンの夕べ』によって、彼のもとに集う文学青年の一団を新しい「自然主義」文学の隆盛の証拠として押し出した。
 文芸批評家はこの「挑戦」を受けて批判を返すが、論戦の最中に、ゾラ自身が『メダンの夕べ』で肩を並べた青年たちを紹介・擁護した一文である。
 ここでは記事の前半、モーパッサンに関する箇所だけを訳出した。
 この記事自体、編集者の配慮によって掲載が遅れるという目にあっており(cf. 書簡235, 237信)、「脂肪の塊」や『メゾン・テリエ』が当時にあっては十分にスキャンダラスであったことを物語っている(モーパッサンなんかを健全な新聞紙上で語るなんて!)。実際、ゾラも記事の中でモーパッサンの誠実な意図を擁護している。
 ゾラにとってモーパッサンは何よりも「健康」を表していたが、若い文学青年モーパッサンの溌剌とした姿を髣髴させる。文末に求められる「長編」が、2年後に『女の一生』として登場したことは、周知の通りである。


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 数多くの公衆に対して、五人の若い作家たちを紹介することを私は約束したのだったが、新聞紙上のからかい屋たちは、私という人物を囲む弟子たちのとても滑稽な諷刺を作っては楽しんでいるのである。ユイスマンスとセアールについて語った後、今日はギ・ド・モーパッサンとポール・アレクシに取り掛かることにしよう。

 私はフロベールの家でモーパッサンを知った。1874年頃のことである。彼は学校を出たばかりで、我々文学仲間の中ではまだ誰も彼を知らなかった。日曜日の二時頃、ミュリロ通りの小さなアパルトマンの中、モンソー公園の木陰に向かって窓の開けられたあの狭い幾つかの部屋に我々が着くと、ほとんどいつでもモーパッサンが既に来ており、時々は師匠と一緒に食事をした後だったが、そんな風に毎週自分の試作を読みに来たのであり、師は厳しく、響きの疑わしい文句の推敲を彼に命じたのだった。我々が着くと、彼は慎み深く姿を消し、ほとんど話さず、知的な様子で耳を傾けていたが、たくましさの内に自分の力強さを感じつつ、メモを取るのだった。
 後になって仲間が出来上がると、彼は自分の武勇伝で我々を驚かせた。中背で背幅が広く、筋肉は固く、肌の下に血が通い、当時の彼は恐るべきボート漕ぎであり、自分の楽しみのために一日に二十里もセーヌを漕いだ。それに加えて自信に溢れた男性であり、驚くような女たちの話や、虚勢を張った恋愛談を持って来ては、善良なフロベールを哄笑させるのだった。
 その時まで、我々はモーパッサンに才能があるのかどうか疑ってみもしなかった。男性向けに書かれた幾つかの詩句をよく知ってはいたが、その種のものに生気を発揮するのは大変に容易なものだ。だから我々は大変に驚いたのだが、それは彼が『水辺にて』という小詩を発表した時のことで、そこで彼は第一級の資質、表現の稀なる単純さと堅固さ、既に自分の仕事に熟達した作家の性質を示してみせたのである。その時から、彼は我々の数に加わり、青年たちの仲間入りをすると、我々は彼が成長するのを目にしたのだが、彼はもっとも才能ある者の一人であり、もっとも勇気と力とを備えており、年長者が成し遂げた地点から今世紀の仕事を継続する者の一人となった。
 もう一つの驚き、また別の啓示が『脂肪の塊』、モーパッサンが『メダンの夕べ』に発表した小説だった。私がクロワッセで最後にフロベールと会話した時、彼は私に言った。「モーパッサンが一編の小説を書いたところだが、大変によく出来ている。あなたも満足することだろう。」我々の書物が印刷されて送られてきて、それを読んだ時に、私は心を奪われた。それは確かに六編の内でもっとも優れていた。落ち着き、品位、繊細さと分析の明確さが一個の小傑作に仕上げていた。さらには、文学に詳しい公衆の間でモーパッサンを一級の、将来ある作家の中に加えるに十分なものだったのだ。
 以上が従って彼の気質を示している。すなわち、まったくノルマンディー的な丈夫さ、血色よいたくましさ、純血の作家の持つ文体である。確かに彼はフロベールに多くを負うており、フロベールの最後の数年は養子さながらであった。だが彼には固有の独自性が備わっており、それは最初の詩句からも見て取れたが、今日は散文において確固としたものとなっている。それは男らしさ、身体的情熱の感覚であり、もっとも優れたページはそれによって燃え立っている。そしてそこにはどんな神経の倒錯もなく、健康で力強い欲望、地上の自由な恋愛、太陽に向かって大きく広げられた生命がある。それが彼の書くものに、豊かな健康と、多少誇張のある陽気さとの、とても個性的な調子を与えるのである。

 モーパッサンは最近『メゾン・テリエ』という小説集を出版した。
 作品集のタイトルでもある最初の作品の主題には拘らないでおく。問題となるのはある種の建物の女主人であり、彼女は五人の女たちを自分の姪の初聖体拝受に出席させるために、隣県の小村に連れて行く。そこから検討の対象にあてられるのは、この娘たちの遠出、大草原の真ん中に芽生える彼女たちの青春、小さな教会で彼女たちを捕らえる宗教的恍惚であり、彼女たちの嗚咽が会衆にも及ぶのである。これ以上に繊細な分析はありえないし、物語は大変に興味深い心理学的、生理学的な資料のままであり続ける。そこに幸福で、陽気になって、大気に充たされた女たちの帰還が加えて描かれている。
 人は言うだろう。「どうしてこんな主題を選ぶのか? 貞淑な場を選ぶことはできないのか?」と。恐らくは。だが私が思うには、モーパッサンがこの主題を選んだのは、彼がそこに大変に人間的で、人の奥底さえもを揺り動かす調子を感じ取ったからだろう。教会に跪いて嗚咽するこの不幸な女たちが彼を誘惑したのは、その習慣がどんなに忌まわしいように見えようとも、習慣の下から現れ出た幼い頃の教育の、よい一例としてである。そしてそこにはさらに、女性特有の神経症、驚異への欲求、日常の卑俗さにおいても生き残る信仰がみられる。作家には宗教を揶揄する意図はなかった。彼はむしろその力強さを確認したのだ。まったく哲学的、社会的な経験であり、大胆さと慎みをもって成されているのである。
 巻を成す他の小説の中で私がもっとも好むのは『いなか娘のはなし』と『家庭』だ。ここでは長々と分析することは出来ない。最初の作品では一人の女中が、農家の息子の子どもを生んだ後に自分の主と結婚する。子どもの存在は隠しているのだが、後になって主人が喜んで養子に取ることになる。次の作品においては、老婆の遺産にブルジョア家庭の者たちが貪欲に飛びつくが、老婆はただ昏睡に陥っただけで、彼女の目覚めはまさしく青天の霹靂となる。これらの作品で私が愛するのは、その美しい単純さなのである。『いなか娘のはなし』はとりわけ単純な広がりをもった素晴らしい出だしである。我々の農民たちをホメロス、シェークスピアやユゴーの目を通して眺めている小説家たちに、これらの数ページを読むことを勧めるのだが、そこには我々の田舎についての正確な調子が見出されるだろう。
 つまるところ、この新しい書物においても、モーパッサンは慧眼の分析家、『脂肪の塊』の堅固な作家であり続けている。間違いなく、若い世代の中でもっとも均整のとれた、もっとも健康な気質である。今こそ彼は長編小説を、根気が必要とされる作品を書き、その力量のほどを示す必要があるだろう。
(以下、略)

『フィガロ』、1881年7月11日付




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