モーパッサン
「ある風景画家の生活」

« La Vie d'un paysagiste », le 28 septembre 1886



(*翻訳者 足立 和彦)

「ある風景画家の生活」掲載紙 解説 1886年9月28日、日刊紙『ジル・ブラース』 Gil Blas に掲載された記事。ある風景画家の書いた手紙というフィクション仕立てで綴られている。末尾の「原本と相違なきことを証明す」は、新聞紙上で「本当らしさを」装う常套手段である。
 フィクション仕立てであるが、エトルタでの3人の画家、クロード・モネ(Claude Monet, 1840-1926)、カミーユ・コロー(Camille Corot, 1796-1875)、ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet, 1819-1877)との出会いは、恐らくモーパッサン自身の実体験に違いない。
 確かに、モーパッサン自身は、ゾラのように印象派の画家たちとさほど親しく交流したわけではなく、またユイスマンスのように熱心に美術批評を行うわけでもなかった。しかし、「視線でもって世界を食べ」、「色彩を消化」すると語るこの作家の、外界に向ける視線のあり方に、同時代の画家たちとの共通点を見出すことは難しくはない。細部を詳細に列挙するのでなく、見たものの瞬間的な印象を鮮やかに喚起することを目指す、そんなモーパッサンの描写は「印象派的」であるとも評されるものである。
 この一文は、モーパッサン文学と同時代の美術との関係を考える上で、示唆に富む貴重な証言だと言えるだろう。


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 エトルタ、9月

 親しい友よ、パリのニュースを教えてくれた君の手紙にお礼を言う。それは大きな喜びを与えてくれたし、また、驚かせてもくれた。まるでもうずっと昔に離れてしまった別世界から来た手紙のようだった。なんと、君が話してくれた者たちはみんなまだ死んでいなかったんだね。そしていまだに同じ無駄話にかかりっきりだとは! 大通りは同じような馬鹿話に取り乱し、サロンは、X…氏がZ…夫人と寝たらしいという話で大騒ぎしている。愚かな政治は、同じ馬鹿どもによって転がされ、一つのわだちから別のわだちにはまってばかりだし、毎日毎日、尊大な紳士方が同じ話題について無数の記事を書いては、それをお人好しが自信をもって議論しあいながら、同じ事柄をもう一万回も読んだということに気づきもしない!
 チュイルリーでの「独立美術家協会展(1)」についての君の話は興味深かった。しっかり目を開いて、新しいことに挑むすべての者、「自然」の中の「未発見なもの」を発見しようとしているすべての者、古い慣習を捨てて誠実に仕事をするすべての者を追いかけなければいけない。でも、この展覧会をどうして夏のさなかに行うんだろう? きっと国家がこの季節にしか場所を貸さないのだろう。国家というのはいつでも変わらず、権力を持った権威的な馬鹿者というわけだ。いつの日か、真夏に美術展を開催させるように命ずるこの原則に従って、国家が、プールの所有者にセーヌ川での水泳や潜水の授業を、十二月から二月までの間だけ開催させるのにお目にかかることだろう。つまるところ、このギャラリーには興味深い見もの、それに予想外なものがあると、君は言うわけだ。結構、帰った際には僕も見に行くとしよう。
 目下のところ、魚が水の中に生きるように、僕は絵画の中に生きている。僕らにとって色彩がなんであるかを知り、見るための目を持つ者にそれが与えてくれる喜びを理解したら、大半の人間にとってそれはどれほどの驚きだろう!
 本当に、僕は目だけでもって生きている。朝から晩まで、平野や森や岩場や蘆の間を通って行きながら、真実の色調、観察されたことのないニュアンスを、流派や学習や古典的な判断力を欠いた教育が、知ったり、理解したりするのを妨げている一切のものを僕は探している。
 飢えた口のように大きく開かれた僕の目は、大地と空をむさぼる。そう、僕には視線でもって世界を食べ、肉や果物を消化するように色彩を消化しているのだというはっきりとした深い感触がある。
 そして、こうしたことが僕にとっては新鮮なんだ。これまでは安全に仕事をしてきた。でも今は探しているんだ!…… ああ、君、君は知らないし、決して知ることもないだろう。一かけらの土くれが何であるのかを、それが近くの地面の上に投げかける短い影の中には何があるのかを。一枚の葉、一個の小石、一本の光線、一束の草が無限に僕を立ち止まらせる。そして僕はそれらを熱心に見つめ、金塊を見つけた金の採掘者よりも感動して、それらの見分けられないような色調や知覚できないような反射を分解することに、神秘的で甘美な幸福を味わうのだ。
 そして僕は気づく。自分が今まで決して何も見ていなかったということに。まったく、こうしたことは良いことだ。ジョッキの数を表す受け皿の山を前に美学に関する無駄話をするよりも良いことだし、もっと有益だ。
 時々、僕は立ち止まって、これまで疑ってもみなかった輝く事物に突然に目がとまったことに驚くんだ! かんかん照りの中で木や草を眺め、それを描こうとしてごらん。試してみることだ。皆が太陽の下で風景画を描いているが、それはつまり皆、盲目だということだ。ねえ君、葉も草も、日光に直撃されたものはすべて、もはや色彩を持たず、輝いているんだ。それもあまりに輝いているので、何物もそれを表現することはできない。光を放っているものを描くことはできないだろう。その幻影を与えることさえできないだろう。昨年、この同じ土地で、僕はしばしば、印象を追い求めるクロード・モネについて行った。実際のところ、彼はもはや画家ではなく、一人の狩猟者だ。彼の後ろには子どもたちがついていて、同じ主題を違った時間、違った効果のもとに表している五、六枚のカンバスを持っている。
 彼は天候の変化とともに順番にそのカンバスを取り上げてゆく。そして画家は主題を前にしたまま、太陽と影を待ち、窺いながら、数回の筆さばきで落ちかかる光線や過ぎ行く雲を捕まえ、偽りや慣習を無視して、素早くそれらを画布の上に乗せてゆく。
 そんな風にして、彼が白い断崖に降るまばゆい光を捕まえ、それを黄色い色の流れに固定するのを僕は見た。その色調が、この見分けがたい目もくらむような輝きのつかの間の驚くべき効果を、見事に表現しているんだ。
 また別の機会には、彼は両手一杯に海に降りかかる雨を受け止め、それを画布の上に投げつけるのだった。そんな風にして彼はまさしく雨を描いた。波や岩や空を覆う雨そのものを描いたのだが、そうした事物はこの豪雨のもとにほとんど区別もつかない状態だった。
 そして僕は、かつてこのエトルタの谷間で仕事をするのを目にした、まだ他の多くの芸術家のことも思い出す。
 ある日、まだとても若かった頃、ボールペールの峡谷を辿っていると、一軒の農家、それもとても小さな農家で、青い作業着を着た老人がリンゴの木の下で絵を描いているのに気がついた。折り畳み椅子の上にかがみこむ彼は、とても小柄に見えた。そしてこの農民の着る作業着が僕に勇気を出させたので、僕は近寄って行って彼を眺めた。中庭は坂になっており、周りを囲む大きな木に、沈みかけた夕陽が斜めの光線をあびせていた。黄色い光は葉の上を流れ、間を通り過ぎ、明るく細い雨のように草の上に降っていた。
 老人は僕を見なかった。彼は小さな四角いカンバスに、そっと静かに、ほとんど動きもしないまま描いていた。白髪はかなり長く、優しそうな様子、顔には微笑が浮かんでいた。
 翌日も僕はエトルタで彼を見た。この老画家の名はコローだった。
 二、三年後のまたある時、僕は浜辺にやって来て嵐を見ていた。怒った風が陸に荒れ狂う海をぶつけていて、その波は巨大で、重々しげに次から次に、泡をかぶってゆっくりとやって来る。そして、突然に砂利浜の急な傾斜にぶつかると、波は身を持ち上げ、アーチのように曲がり、耳をつんざく音とともに崩れてゆく。断崖から断崖へと、波の表からはがれた泡が渦を巻いて飛び上がり、突風に運ばれて屋根を越え、谷間へ去って行くのだった。
 突然、近くである男が言った。「クールベを見に来たまえ。素晴らしいものを作っているよ。」話しかけられたのは僕ではなかったけれど、その芸術家を少しだけ知っていたので、僕はついていった。彼は下方の断崖に寄り掛かって建つ、海にじかに面した小さな家に住んでいた。そもそもこの家は、海洋画家ウージェーヌ・ル・ポワトヴァン(2)の所有するものだった。
 大きな何もない部屋の中に、脂肪太りした汚い男性が、裸の大きな画布に料理用のナイフで白色の塊を塗りつけていた。時々、彼は立って行ってガラス窓に額を押しつけて嵐を眺める。海はあまりに近くまで来るので、家にぶつかりそうなほどだった。家は泡と音とに包まれていた。塩水が霰のようにガラスを叩き、壁の上を流れていった。
 暖炉の上には一本のシードルの瓶、その隣に半分ほど入ったグラスがあった。時々、クールベはそこへ行って少しばかり飲み、それから作品へと戻るのだった。この作品は『波』となり、後に世間でいくらか評判となった。アトリエの隅では三人の男性がおしゃべりしていた。僕が間違っていなければ、そこにはシャルル・ランデル(3)がいただろう。クールベも話した。重々しいが陽気で、冗談を言い、ぶっきらぼうだった。彼の精神は重苦しいが正確で、粗野な冗談の陰には農民の良識が溢れていた。彼は同僚に見せられた『聖家族』を前にして言ったものだ。「とても綺麗じゃないか。じゃあ君はこの人たちを知っているというわけだ、肖像画を描いたんだからね!」

 どれほど多くの他の画家たちがこの谷を通って行くのを僕は目にしただろう。ここでは恐らく日光の質が彼らを惹きつけるのだ。それはまったく特別なものだ! それというのも日光というものは、ボルドー地方のワインと同じほどに、何里か離れるだけで異なるのだ。ここでは、光はまばゆくてもどぎつくはない。すべては明るいが、むき出しではなく、すべては驚くほどにニュアンスに富んでいるんだ。
 それにしても、必要なのは見ること、いや、むしろ発見することだ。目とは、人間の器官の中でもっとも素晴らしいものであり、無限に改良可能なものなのだ。知性をもってその教育を進めるなら、それは見事なまでの鋭敏さに到達できる。古代の人びとは、ほんの四つ、五つの色しか知らなかったという。今日、我々は無数の色調に気づいているんだ。そして真の芸術家、偉大な芸術家は、無知な大衆が評価するあからさまな効果よりも、ただ一つの色調の内に得られる変化と調和に、より一層感動するのである。
 ゾラが見事な『制作』(4)の中で語った恐ろしい戦い、人間と思考とのあの果てしない戦い、芸術家が自らの思想や、わずかに垣間見た捕えがたい画像を相手とするあの素晴らしくも恐ろしい戦い、それを僕も目にするし、また戦っている。ひ弱で、無力な僕だけれど、クロードのように苦しみながら、捕えがたい色調、定義できないような調和を相手に戦っている。恐らくは僕の目だけが、それらの存在を認め、記すことができるのだ。僕は苦しい日々を過ごしている。白い通りの上に一個の標石の影を眺めつつ、それを描くことはできないと認めるのだ。
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原本と相違なきことを証明す
ギ・ド・モーパッサン

『ジル・ブラース』紙、1886年9月28日付




訳注
(1) 国家主催のサロンを引き継いだ「フランス美術家協会」主催サロンに対抗して「独立美術家協会」は1884年12月に第1回目のサロンを開催した。モーパッサンがここで言及しているのは、1886年8月20日―9月27日の期間に開催された第2回のサロン。
(2) Eugène Le Poittevin, 1806-1870. ノルマンディーの海洋風景を好んで描いた。エトルタの別荘 La Chaufferette に1869年にクールベを迎えた。
(3) Charles Landelle, 1821-1908. 第二帝政下に活躍したアカデミックな画家。風俗画や肖像画をよく描いた。
(4) エミール・ゾラの長編小説『制作』は、『ジル・ブラース』に1885年12月23日から86年1月22日にかけて連載された後、4月にシャルパンティエ書店から刊行されている。したがってモーパッサンによる言及は、『ジル・ブラース』読者への目配せと言えるものとなっている。




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