モーパッサン年表

Chronologie sur Maupassant




* この年表は主に以下を参照して作成した。ただし適宜、追加・修正などを加えてある。
・Guy de Maupassant, La Maison Tellier, Une parite de campagne et autre nouvelles, éd. Louis Forestier, Gallimard, coll. « Folio classique », 1993.
・Guy de Maupassant, Contes et nouvelles, éd. Louis Forestier, Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », 2 tomes, 1974 et 1979.
・Marlo Johnston, Maupassant, Fayard, 2012.


Index
1850 1851 1854 1856 1857 1858 1859
1860 1861-62 1863 1864 1866 1868 1869
1870 1871 1872 1873 1874 1875 1876 1877 1878 1879
1880 1881 1882 1883 1884 1885 1886 1887 1888 1889
1890 1891 1892 1893 1897 1900 1903




出来事 (モーパッサン関連、および芸術、政治)

1850 8月5日、ギィ・ド・モーパッサン誕生。セーヌ゠マリティーム県にあるミロメニルの城館にて。父ギュスターヴ・ド・モーパッサン (1821-1900)、母ロール・ル・ポワトヴァン (1821-1903)。夫婦の仲は良好ではなかった。示談による別居は1863年に成立。
ギュスターヴ・フロベール (1821-1880) がギィの本当の父であったという、幾人かが提唱した仮説に根拠はない。唯一の真実とは、ロールの兄アルフレッド (1816-1848) が、青年フロベールの重要な友人だったということである。
1851 12月2日、ルイ・ナポレオン(翌年ナポレオン三世)によるクーデター。第二帝政成立。
1854 グランヴィル=イモーヴィルの城館に移住。
1856 5月19日、弟エルヴェ誕生。
1857 ギュスターヴ・フロベール『ボヴァリー夫人』 Madame Bovary、シャルル・ボードレール 『悪の花』 Les Fleurs du Mal 出版。
1858 イヴァン・トゥルゲーネフ 『ある猟師の物語』仏訳出版。
1859 父ギュスターヴがパリのシュトルツ銀行に入社。家族でパリに移住(パッシーのマルシェ通り3番地)。
10月、パリのナポレオン校(現在のアンリ四世校)に入学。
1860 年末に両親が別居。父はパリに留まり、エヴラール銀行に勤める。ロールはエトルタに別居前に購入していたヴェルギー荘に2人の息子と共に移住。
1861-1862 エトルタの聖職者オブール神父の授業を受ける。
62年冬、フロベール『サラムボー』を読む。
1863 年頭、治安裁判所の証書によって両親の別居が決定。
10月、イヴトーの神学校の寄宿生に。1868年まで。規律と閉塞的な生活に嫌気がさす。最初の試作。
「落選展」(マネ、ピサロ、セザンヌ等)。
1864 休暇をエトルタで過ごす。
1866 、一時的にル・アーヴルのリセに通う(?)。
夏、エトルタで英国詩人スウィバーンに出会う。
1868 4月、ルソー『新エロイーズ』読書。
5月23日、神学校を放校になる。悪童たちの集団「オアシス」に加盟し、不良行為を働いたため。
夏、エトルタで休暇中に、イギリスの詩人アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン (1837-1909) に出会い、交流。
ルーアンの高校に寄宿生として入る。「レトリック」「哲学」の学年を過ごす。
フロベールの友人である、詩人ルイ・ブイエ (1822-1869) と交流。
1869 7月18日、ブイエ死去。
7月27日、文学バカロレア(大学入学資格試験)合格。
8月、エトルタで絵画を描くクールベに出会う。
9月、スウィンバーンと再会。
10月、パリ大学法学科に登録。モンセー通り2番地に下宿。父も同じ建物に暮らしていた。ただし実際には多くの時をエトルタで過ごした模様。
11月、フロベール『感情教育』 L’Éducation sentimentale 出版。
1870 スペイン王位継承を巡ってフランスとプロイセンが対立。
7月14日、ヴィルヘルム1世の電報をビスマルクが意図的に編集して公表(エムス電報事件)。両国で世論が沸騰。
7月19日、フランスは宣戦布告し、普仏戦争勃発。
ギィは8月15日、クリクト市役所にて登録、17日に入隊する。
8月、ヴァンセンヌにて入隊検査。
9月にはルーアン第2師団、兵站部に配属。
9月2日、スダンの敗北、ナポレオン3世捕虜に。
9月4日、帝国の終焉、臨時政府の成立。パリの包囲。
12月4日―5日、ルーアン開城、逃走する軍隊の中にモーパッサンもいた(一晩に60キロを歩く)。オンフルールからル・アーヴルへ。
1871 1月28日、停戦協定。
3月、伯父コルドムの援助でエトルタに。
3月18日―5月28日、パリ・コミューン。
6月、ルーアンに滞在。
9月、兵役代理によって除隊。
10月、エミール・ゾラ、 「ルーゴン‐マッカール叢書」第1巻『ルーゴン家の繁栄』 La Fortune des Rougon 出版。
1872 1月7日、海軍省への入省を志願する。
1月18日、空席はないとの返事。
3月、席が空くまで無給にて図書館に配属。
10月、海軍省の定員外職員(無給)に任命。
1873 マク=マオンの権力は7年に渡って増強。「道徳的秩序」の普及が始まる。
文学:無名の若者が詩の出版を行うが多くの読者を得るには至らない(トリスタン・コルビエール、シャルル・クロ、アルチュール・ランボー)。
反対に大きな成功を収めたのはゾラの『パリの胃袋』 Le Ventre de Paris
マネはサロンに展示した「ル・ボン・ボック」 « Le Bon Bock » によって初めて、大衆に受け入れられる。

2月1日、月給125フラン(年俸1,500フラン)、150フランの賞与の正規職員に。経理部に配属。
8月、週2日をアルジャントゥイユで過ごす。ボート「バラの葉」号で遊ぶ。友人にレオン・フォンテーヌ(プティ・ブルー)、アルベール・ド・ジョワンヴィル(アジ、または一つ目)、ロベール・パンション(トック帽)、モーパッサンは「ジョゼフ・プリュニエ」と名乗っていた。
朝の5-7時には武術の稽古。フェンシングやピストルに秀でていた。
9月、数日をエトルタで過ごす。海軍省に勤めていた間は、派遣命令を所持していたので列車の料金が通常の4分の1で済んだ。
1874 3月11日、フロベールの喜劇『候補者』Le Candidat 初日。
4月15日、物資部、4等官に任命される。月給150フラン(年俸1,800フラン)。
4月、フロベール『聖アントワーヌの誘惑』出版。
4-5月、ナダールのアトリエで最初の「印象派」展。
フロベールの仲介によって、モーパッサンはエドモン・ド・ゴンクール (1822-1896)、ゾラ、後に「自然主義者」となる作家たちと出会う。
年末、一幕韻文劇『昔がたり』Histoire du vieux temps 執筆。
1875 短編小説「剥製の手」 « La Main d'écorché » が雑誌『ポン・タ・ムッソン=ロレーヌ年鑑』に掲載、ジョゼフ・プリュニエの筆名。
4月19日、仲間と共作の陽気で淫らな芝居『バラの葉陰、トルコ館』 À la feuille de rose, maison turque、画家ルロワールのアトリエで私的な上演。
4月27日、ノルマンディー散策の後、ゾラより『ムレ神父の過ち』を受け取る。
7月、郊外への散策とセーヌ河畔(ブゾン、ブージヴァル、シャトゥー、クロワッシー)への遠出(ラ・グルヌイエール)。
8月後半、エトルタに滞在。
10月頃、中編「エラクリユス・グロス博士」、戯曲『稽古』 Une répétition執筆。
1876 3月、『稽古』 Une répétition ヴォードビル座に上演を断られる。
ギィ・ド・ヴァルモンの筆名で雑誌『文芸共和国』(カテュール・マンデス編集) に詩篇「水辺にて」 « Au bord de l'eau » (3月)、「日射病」 « Un coup de soleil » 他3篇(6月)、「最後の逃走」 « La Dernière Escapade » (9月)を発表。
8月、1ヶ月の有給休暇を取得。
10月、ヘルペス再発に苦しむ。
10月、クローゼル通り17番地に転居。
10月22日、最初の雑誌記事「ギュスターヴ・フロベール」を『文芸共和国』に発表。
11月、フロベールの仲介により、新聞『国家』に記事「書簡に見るバルザック」掲載。
年末、戯曲『リュヌ伯爵夫人の裏切り』 La Trahison de La Comtesse de Rhune を執筆。

この頃、将来の「メダンのグループ」の集団が形成される(ゾラ、ユイスマンス、ポール・アレクシ、レオン・エニック、アンリ・セアール)。
1877 5月、政治的危機。議会の解散。10月の選挙で共和派が大半を占める。

1月1日、3等官、月給175フラン(年俸2,100フラン)に昇格。
1月、新聞記事「16世紀のフランス詩人たち」掲載。
4月16日、「トラップ」亭で会食。メダンの若い一団によって計画され、フロベール、エドモン・ド・ゴンクール、ゾラを囲む。
4月24日、フロベール『三つの物語』を受け取る。「ギィ・ド・モーパッサンへ/先輩より抱擁を/G・フロベール」
5月17日、画家ベッケールのアトリエで『バラの葉陰、トルコ館』、2度目の上演。フロベール、ゴンクール、モーパッサンの父などが観劇。
8月、2ヶ月の有給休暇を取得し、スイスのロエッシュ=レ=バンで治療。
9月、エトルタに滞在。ロベール・パンション、ルイーズ・ド・ミラモンと芝居を上演。
11月3日、『ブヴァールとペキュシェ』執筆中のフロベールにエトルタ近郊について教える詳細な手紙を執筆。
11月11日、「聖水授与者」が、ギィ・ド・ヴァルモンの筆名で『モザイク』紙に掲載。
年末、長編小説『女の一生』のプランを立てる。

ゴンクールの『娼婦エリザ』 La Fille Élisa、ゾラの『居酒屋』 L’Assommoir 出版。
1878 年頭、改稿した戯曲『レチュヌ伯爵夫人』La Comtesse de Rhétune 完成。コメディー・フランセーズに提出するも受諾されず。
3月19日付『ゴーロワ』紙に詩篇「最後の逃走」 « La Dernière Escapade » 掲載。
長篇詩「田舎のヴィーナス」 « Vénus rustique » 執筆。
12月、海軍省を辞めて、文部省に異動。
1879 2月『昔がたり』 Histoire du vieux temps 上演。フランス第三劇場(デジャゼ劇場 Théâtre Déjazet)。
『改革』誌に「シモンのパパ」 « Le Papa de Simon » 掲載。
出版社トレス Tresse の作品集『寸劇と独白』第6集 に『稽古』 Une répétition 発表。
秋、ブルターニュ、ジェルシーに旅行。
11月、『現代自然主義誌』に1876年発表の詩「水辺にて」 « Au bord de l'eau » が再録され、そのことによって数週間後、エタンプの検事局より公序壊乱の廉で予審開始。
「脂肪の塊」 « Boule de suif » に取り掛かる。
12月、教育功労勲章を受ける。
1880 2月、エタンプ事件、免訴決定。
3月、目の不調。年を追うごとに深刻になり、激しい偏頭痛を伴う。
4月、『メダンの夕辺』 Les Soirées de Médan 出版(「脂肪の塊」収録)。華々しい成功によって、モーパッサンは一躍有名になる。
同月、シャルパンティエ書店より『詩集』 Des vers 出版。
5月8日、フロベール死去。
同月、『ゴーロワ』紙と契約。『パリのあるブルジョアの日曜日』連載。
6月、休暇届けを出す。以後彼は職場に戻らず、自らのペンで生計を立てることになる。
7月、コミューンの受刑囚に大赦。
7月14日が国民の祝日となる。
8月20日、『ゴーロワ』紙に「エトルタ」掲載。ショードロン・デュ・ディアーブルの筆名。
9月、コルシカへ旅行。
10月、旅から戻る途中、自然主義文学者による雑誌『人間喜劇』 発刊計画に参加の意を掻き立てられる。しかし雑誌は陽の目を見ることがない。
秋、母からエトルタ、グラン・ヴァルの菜園を譲り受ける。後にそこに別荘「ギエット」荘を建設する。
11-12月、『テリエ館』に取りかかる。
年末、デュロン通り83番地に転居(84年7月まで)。ジゼル・デストックとの関係が始まる(間をはさんで1886年まで続く)。

ゾラ『実験小説論』 Le Roman expérimental、 ショーペンハウエル『思考、箴言、断片』 Pensées, maximes et fragments(翻訳J・ブルドー)
1881 1月、エトルタに滞在。
1月29日、ゾラ『ナナ』の初演を観劇
2月、 『ヌーヴェル・ルヴュ』に寄稿。
3月、『ルヴュ・ブル』に寄稿。
サルトルヴィルに新たに宿を借りる。3年にわたってしばしば宿泊。
4月25日、『ナナ』100回公演の祝宴に出席。
5月、短編集『テリエ館』 La Maison Tellier 出版。
『女の一生』の執筆再開。
北アフリカで反乱。7月、モーパッサンはアルジェリアへ。ルポルタージュを発表。
9月、コルシカ島のバスチアに上陸し、エルバルンガで母と再会。そこからイタリアへ向かう。フィレンツェ、ジェノヴァ。ゴルフ=ジュアンでアダン夫人に会う。
9月26日、トゥルゲーネフより「あなたの名前はロシアで評判になっている」と知らされる。
10月、パリ、次いでエトルタへ。
「仲間意識?……」において、マクシム・デュ・カンとフロベールを巡って論争。
10月29日、『ジル・ブラース』への寄稿が始まる (モーフリニューズの筆名)。
この年、ベルギーで刊行の『十九世紀の新サチュロス高踏派詩集』に「ひげの女」など3篇の詩が掲載される。
1882 1月初め、拳銃で手を怪我する。
1月、ジュール・ヴァレスと交流。この頃より、エルミーヌ・ルコント・デュ・ニュイとの関係が始まる。
1月、ユイスマンス『流れのままに』 À vau-l'eau 出版。
3月、キストメケール書店がゴダール・ドクール『テミドール』再刊。モーパッサンは書評「読書つれづれ」を執筆、後に序文として再録される。
3-4月、サルトルヴィルに滞在。
5月、短編集『マドモワゼル・フィフィ』 Mademoiselle Fifi 出版。
5月、南仏滞在 (マントン、サン=ラファエル)。
7月-10月、エトルタに滞在。
8月24日、ルーアンでルイ・ブイエの像の除幕式。モーパッサンは制作委員会の一員だった。
11月28日、シャルパンティエ提案の契約を拒絶。
『詩集』豪華版の出版を企図(1884年にアヴァール書店から刊行)。
12月、ヴォー男爵『射撃主たち』に序文を寄稿。

ユニオン・ジェネラル銀行株の大暴落。義務教育に関する法の制定。ジュール・フェリーによる初等教育法成立。デルレードによる「愛国者同盟」設立。
1883 フランス、トンキンへの遠征(4-8月)。
マネ、トゥルゲーネフ死去。ヴィリエ・ド・リラダン『残酷物語』 Les Contes cruels、ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』出版。

1月13、クリュニー劇場においてビュスナック作『トマサン夫人』上演。モーパッサンが関わったという噂あり。
目の痛みを訴え、ランドルト博士の診察を受ける。
2月、『シャ・ノワール』編集次長のエドモン・デシャンといさかい。この雑誌は12月30日の号からモーパッサンが「代表取締役」という冗談を掲載していた。
2月27日、ジョゼフィーヌ・リッツェルマンとの間の私生児3人の内、最初の子(リュシヤン)が生まれる(?)。
3月、カンタン書店より評論『エミール・ゾラ』刊行。
4月、長編『女の一生』 Une vie、『マドモワゼル・フィフィ』新版。アシェット書店は一時、駅の売店での『女の一生』の販売を中止。
モーパッサンは弟エルヴェをクレディ・リヨネ銀行へ入行させられないかと画策。
画家ギユメや友人たちとセーヌ川でボートに乗る。
6月、ルーアン、エトルタへ。
6月、短編集『山鴫物語』 Contes de la Bécasse 出版。
7-8月、シャテルギヨンに滞在。ポトツカ伯爵夫人と文通。
9月3日、トゥルゲーネフ死去。
9月、エトルタに滞在。
11月1日、フランソワ・タッサールが従僕としてモーパッサンに仕えるようになる。彼は作家の最後の10年間に関する、最も詳しく、しかしながら議論の余地のある証人となる。
12月、カンヌ滞在。以後定期的に繰り返される。月末にパリへ。
この年、ジュール・ゲラン『娘の娘』に序文を寄稿。
1884 『ジル・ブラース』、『ゴーロワ』各紙に、短編、クロニックの掲載が最も盛んだった年。
1月、旅行記『太陽の下に』 Au soleil
1月末、カンヌへ。
1月30日、ドイツで発禁処分となった書籍『ベルリンの社会』の著者であるという噂を否定。この日、ショニーのド・ポワリー男爵夫人宅で『昔がたり』上演。
2月、ジョルジュ・サンド宛フロベール書簡集の序文として「ギュスターヴ・フロベール」を掲載。
2月、カンヌの宿泊先で誤って出火。修正を入れていた『詩集』の原稿を焼失した。
3月、「文学者協会」に入会(フランソワ・コペとジュール・クラルティが推薦者)。
この頃より、ポトツカ伯爵夫人と交流。彼女が主催する「死体の会」の一員となる。
ロシアの女性画家、マリー・バシュキルツェフ (1860-1884) との文通。
3月末、モンシャナン通り10番地のアパルトマンに、従兄のルイ・ル・ポワトヴァンと一緒に住む。
4月、『ミス・ハリエット』 Miss Harriet, 『詩集』新版。
6月、秋までエトルタに滞在。何人かの女性たちの訪問あり。
7月、『ロンドリ姉妹』 Les Sœurs Rondoli
8月、『月光』 Clair de lune
8月、ポール・ジニスティ『三人の愛』に序文。
11月、『イヴェット』 Yvette
『ベラミ』 Bel-Ami に取り掛かる。
12月、カンヌ、ヴィラ「我が喜び」に母と共に滞在。モーパッサンの名をかたって盗みを働いた詐欺師について不満を述べる。

ユイスマンス『さかしま』 À rebours 出版。
1885 ゾラ『ジェルミナール』 Germinal、ラフォルグ『哀歌』 Les Complaintes 出版。

1月末、カンヌに。
3月、短編集『昼夜物語』 Contes du jour et de la nuit 出版。
3月30日、ジュール・フェリー内閣失墜。
4月‐5月、イタリア旅行へ。アンリ・アミック、・画家アンリ・ジェルヴェクス、ジャーナリストのジョルジュ・ルグランと共に。ヴェネチア、ローマ、ナポリ、シチリアへ。パレルモのカプチン派修道院の地下墓地、ワーグナーが《パルジファル》を作曲した家、カターニア、シラクザなどを訪れる。
5月、長編『ベラミ』をアヴァール書店から出版。
5月22日、ヴィクトル・ユゴー死去。
6月、パリに戻る。7日、「『ベラミ』批評に答えて」を『ジル・ブラース』に掲載。
6月15日、新しいシャ・ノワールの開場の祝宴に出席。
7月半ば、エトルタに滞在。
7‐8月、シャテルギヨンに滞在、『モントリオル』を準備。
8月末-9月、エトルタに滞在。
9月末、エルヴェがマリー=テレーズ・ファントン・ダンドンと婚約。
秋、ビュスナックと共作で『ベラミ』の舞台化を検討するが、実現に到らず。
11月、エトルタに滞在。
12月、短編集『パラン氏』 Monsieur Parent 出版(契約上は翌年2月刊行のはずだった)。
12月7日、マリー・カーン宅で夕食。以降、社交界に顔を出し、高校生だったマルセル・プルーストとも顔を合わせる。
この頃、弁護士エミール・ストロースと妻ジュヌヴィエーヴ(作曲家フロマンタル・アレヴィーの娘、先の夫はジョルジュ・ビゼー)と知り合う。
年末から翌年にかけて南仏へ。アンティーブで「ヴィラ・ミュテルス」を借りる。弟エルヴェが園芸の会社を設立するのを助ける。
ヨットを購入し、「ベラミ」号と命名する。
この年、シャルパンティエ書店から短編集を出版。
1886 文学、美術史上重要な出来事が続く。最後の「印象派」展(5-6月)。ランボー『イリュミナシオン』 Illuminations、ニーチェ『善悪の彼岸』、ゾラ『作品』 L'Œuvre、ドリュモン『ユダヤのフランス』 La France juive 出版。

1月、短編集『トワーヌ』 Toine 出版。
1月19日、エルヴェ・ド・モーパッサンとマリー=テレーズ・ファントン・ダンドンとの結婚式。二人の間には娘シモーヌが生まれ、彼女はジャン・オソラと結婚することになる。
3月、アンティーブ、カンヌに滞在し、『モントリオル』を執筆。
4月27日、エトルタの動産に課される税の査定額が高すぎるとして、セーヌ=マルティー県庁に減税を願い出る。
4月末、『XIX世紀』紙のためにサロン評を執筆。
5月、短編集『ロックの娘』 La Petite Roque 刊行。ポトツカ伯爵夫人宛ての献辞に「認められない男からのオマージュ」と記す。
5月、ジャン・ロランが小説『とてもロシア的』 Très russe の中で、ボーフリランの名を付してモーパッサンの肖像を描く。あまり好意的ではない。「あれは偉大なるフロベール・ゾラ種馬飼育場産なる、文学造形型種馬だ。わめいては、自分を見せびらかしている」等々。かろうじて決闘沙汰には到らずに済む。
この頃、サロン評の刊行を試みるが実現せず。校正のみが残された。
6月後半、シャトゥーに滞在、友人を招く。
7月、シャテルギヨンに滞在。数日をエトルタで過ごす。
8月前半、ファーディナンド・ド・ロスチャイルド男爵に誘われて、イギリス、ハンプシャー州のワデスドン・マナーに滞在。ブールジェの勧めに従い、オックスフォードを訪れる。
8月半ば、数日エトルタに滞在後、サン=グラティヤンのマティルド皇女宅を訪れる。
9月、エトルタに滞在。「ギエット」荘に友人を招く。
9月18日、ジャン・モレアスが『フィガロ』紙に「象徴主義」を発表。象徴主義の到来を宣言する。
10月末、アンティーブ、「アルプス」荘に滞在。
12月、ヨットで周遊。サン=ラファエルにいるマリー・カーンを訪問。
この年、オスカー・メテニエに「マドモワゼル・フィフィ」の舞台化を許可(上演は1896年に自由座で)。画家ジェルヴェクスがモーパッサンの肖像画を制作。
1887 ブーランジェ将軍の動乱(5月)。ウィルソン事件。ジュール・グレヴィ大統領罷免(12月)。

1月、長編『モントリオル』 Mont-Oriol 出版。
2月14日、抗議文「エッフェル塔に反対する芸術家たち」が『タン』紙に掲載される。モーパッサンも署名を寄せる。
5月、短編集『オルラ』 Le Horla 出版。
6月末、エトルタ滞在。「ギエット」荘にはシャワーとビリヤード室が増築。
7月8-9日、パリからオランダのヘイストまで気球「オルラ」号による旅行。
8月18日、ゾラ『大地』 La Terre に反対する「五人の宣言」(ボンヌタン、ロニー、デカーヴ、マルグリット、ギッシュ)が『フィガロ』紙に掲載。自然主義「党派」の消滅を示す。
8月、弟エルヴェ、最初の入院。
9月、狩猟の季節にエトルタに滞在。
10月、カンヌのヴィラ「コンチネンタル」荘を借りる。
1888 1月、『ピエールとジャン』 Pierre et Jean 出版。重要な論考「小説論」 « Le Roman » を付す。
1月末、南仏へ。
4月、「ベラミ」号でカンヌ、トゥーロン、マルセイユを周航。
5月、『月光』新版。
6月、紀行文『水の上』 Sur l'eau 出版。
9月、エトルタ滞在、頭痛に苦しむ。
9-10月、エクス=レ=バンで湯治。
10月、短編集『ユッソン夫人推薦の受賞者』 Le Rosier de Mme Husson 出版。
11月5日、パリを発って北アフリカへ。6日にマルセイユから出港、8日にアルジェに到着。アマム・リガ、ウアルセニ、アルジェへ。
12月9日頃、チュニスに。
12月、『ジル・ブラース』を辞め、『エコー・ド・パリ』に移籍。
ゴンクールに宛てて『ジェルミニー・ラセルトゥー』初演を祝う言葉を送る。28日にはブリュヌティエールに宛てて、『両世界評論』に小説を送ると伝える。
この年、ナダールによる肖像写真の撮影。
1889 1月14日、チュニスを出発し、16日にマルセイユに到着。
1月末、ヨット「ザンガラ」号を購入、「ベラミII」号と命名。
2月、『獣人』執筆のゾラのために推薦状を西部鉄道会社に送る。ゾラはパリ=マント間の旅行を行った。
2月末、短編集『左手』 La Main gauche 出版。
3月、ヴィリエ・ド・リラダンに時評文一回分の原稿料200フランを寄付。
『パリの典型たち』Les Types de Paris に「女中たち」を寄稿。
5月6日、万国博覧会開催。「私はこの種の快楽向きの性行ではない」と記し、エッフェル塔から逃げ出す。
5月、長編『死の如く強し』 Fort comme la mort 出版。
5月末、ヴォー近郊トリエルにて、ヴィラ「シュティールドルフ」荘に滞在。ポトツカ伯爵夫人と交際。
7月、パリとエトルタを行き来する。
8月11日、弟エルヴェ、リヨン=ブロンの精神病院に入院。
8月後半、エトルタの「ギエット」荘でパーティー。「モンマルトルの犯罪」という出し物が行われた。
8-10月、「ベラミII」号で周遊。
10月、リヴォルノ、ピサ、フィレンツェ。
『エコー・ド・パリ』紙による短編小説コンクールの審査員を務める。
11月13日、ブロンにて、弟エルヴェ死去。グラースの母のもとに滞在。
11月、パリのヴィクトル=ユゴー大通り14番地にアパルトマンを借りるが、1階のパン屋の騒音のために住めず。
年末、イタリア旅行の印象を記した頁を破棄する。

文学において新しい世代が台頭し始める。バレスは一連の『自我崇拝』に関する作品を出版。クローデル『黄金の頭』 Tête d’Or、ジャリは『ユビュ王』 Ubu roi 『寝取られユビュ』 Ubu cocu の最初の原稿をすでに書き記している。
1890 原稿執筆に衰えが見える。
3月、旅行記『放浪生活』 La Vie errante 出版。
4月、短編集『あだ花』 L'Inutile Beauté 出版。
4月頃、ボッカドール通り24番地のアパルトマン、マク=マオン大通りの独身用アパルトマンを借りる。
5月頭、フォンテーヌブローに滞在。
6月、エクス=レ=バンに滞在。
6月、長編『わたしたちの心』 Notre cœur 出版。
7月、医師の勧めでプロンビエールで湯治。湿度に困らされる。
8月、エトルタに滞在。
8月末-9月、エクス=レ=バンに滞在。アンリ・カザリス医師に会う。
夏、長編『異国の魂』L'Âme étrangère(未完)に取り組む。『お告げの鐘』L'Angélusも構想。
9月25日、マルセイユからアルジェへ。マリーとエドゥアール・カーン、マリーの姪のイダと共に。メデア、コンスタンチーヌ、ビスクラ、オラン、トレムセンなどを旅行。11月9日、アルジェより帰国。
11月23日、ルーアンにてフロベール像の除幕式。「ギュスターヴ・フロベール」を発表。
多くの日を移動と滞在に当てる。自分自身から逃亡したかったのだとも言えよう。
この年、デュマ・フィスから誘いのあったアカデミー・フランセーズ立候補を拒否。
1891 ジュール・ユレ『文学の進化についてのアンケート』出版。ポール・アレクシの有名な電報文がそこに掲載されている。「自然主義は死なず、以下手紙。」モーパッサンの回答は陰鬱なもの。
未刊のままに終わる長編『お告げの鐘』の執筆。
3月、ジムナーズ座で3幕芝居『ミュゾット』 Musotte 上演。
7‐8月、リュション、ディヴォーヌ、シャンペル(スイス)で治療。
12月、遺書をしたためる。
1892 元日、自殺未遂。
1月7日、パッシ-にあるブランシュ博士の精神病院に入院。一年以上に及ぶ苦しみ。直接の原因は梅毒。徐々に錯乱と全身麻痺に襲われる。
1893 3月『家庭の平和』 La Paix du ménage コメディー・フランセーズで上演。
7月6日、ギィ・ド・モーパッサン死去。
8日、サン=ピエール=ド=シャイヨー教会で葬儀が行われ、モンパルナス墓地に埋葬される。
1897 10月23日、パリのモンソー公園にモーパッサン像建立。彫刻家ラウル・ヴェルレによる。
1900 1月24日、父ギュスターヴ・ド・モーパッサン死去。
1903 12月8日、母ロール・ド・モーパッサン死去。82歳。
モンパルナス墓地のモーパッサンの墓

モンパルナス墓地のモーパッサンの墓



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