モーパッサンとサラ・ベルナール

Maupassant et Sarah Bernhardt



サラ・ベルナール  やんちゃな娘が「女優になるの!」と宣言してコンセルヴァトワールに入り、めでたくデビュー公演を行うも、鳴かず飛ばずですぐにほっぽり出されてしまう。
 娼婦まがいのよく分からない生活の間に一人息子を出産。その後、オデオン座に復帰し、フランソワ・コペーの芝居『行きずりの人』Le Passant (1869) が大ヒットとなると、彼女は契約期間中にもかかわらず、コメディー・フランセーズと再契約を結ぶ。そして他の役者の反感も構わず、立て続けにヒットを飛ばし、ユゴー『エルナニ』Hernani(1877)のドニャ・ソルで大勝利を収め、劇場一の女優と謳われるに至った。
 それにとどまらず、今度は劇場の待遇が悪いとごねてあっさり退団。陰では山師のような男と組んで、まずはイギリスでの公演、それからアメリカ征服への旅に出かける。アメリカ、カナダを巡っていずれの地でも熱狂的に迎えられ、華々しくル・アーヴルの港に凱旋の帰国を果たすのが、1881年のことだった(図はコンセルヴァトワール入学時、16歳頃)。

 というのが女優サラ・ベルナール Sarah Bernhardt (1844-1923) の前半生なのであるが、その間に看板役者ムネ・シュリーやギュスターヴ・ドレ、ヴィクトール・ユゴーとも関係をもって愛憎劇を繰り広げている。とにもかくにも破格の生涯であり、彼女こそは、まさしく「最後のロマン派女優」の名にふさわしい。おまけに生きる「宿命の女」みたいなもので、全ての男は彼女の前にめろめろなのであった。例外はただ一人、オスカー・ワイルド(ホモセクシャルだったから)。

 19世紀後半のフランス演劇を象徴するかのような大女優に成長するサラ・ベルナールと、青年ギ・ド・モーパッサンには束の間の交流があった、という話をしたいと思う。

 1870年代、自ら詩人をもって任じたこの文学青年は、同時に演劇の野心をも抱くことになる。文芸としての地位はいまだ第一等でありながら、限られた読者数で売れないのが詩であるのに対し(事情は今日も変わらない)、演劇は(当たれば)多数の観客を迎え一攫千金も夢ではないジャンルであったから、当時の作家はほとんど皆が芝居にも挑戦している。
 モーパッサンにあって特殊なのは、第二帝政以降の現代ブルジョア演劇の隆盛にもかかわらず、韻文歴史劇の執筆に着手したことにある。ロマン主義の影響なお濃いこのジャンルは、古典悲劇を現代に継承するものとして「高級」なジャンルと目されていた。同時に(いつの世もそうであるように)歴史ものはスペクタクル性において大衆をも十分に魅了するものだったこと確認しておこう。高尚なる詩人を自任し、同時にお金も欲しい一文学青年としては、このジャンルに目を向けるのは、実は当然のことだったのである。
 そういうわけで歴史劇に取り組んだモーパッサン。選んだ舞台は14世紀のブルターニュ。とある城主と妻とその愛人の三角関係を軸に、愛と裏切りのドラマを書き上げる。それが三幕『リュヌ伯爵夫人の裏切りLa Trahison de la Comtesse de Rhune だった。1877年3月のことである。

 けれどもそこに師フロベールの忠告が与えられる。「十分結構で優れた芝居だと思う。でもこのままでは上演されないだろう――淫らすぎるので。」(3月22日付書簡)実際、自らの愛と欲望のために夫も領地をも裏切ってはばかることのないリュヌ伯爵夫人の台詞には、当時の道徳を逸脱する過激さがあり、ブルジョア観客の趣向を第一に考える劇場という場において、上演されることは難しかっただろう。
 そこでモーパッサンは改稿に取り組むことになる。過激な表現を削除、修正する自己検閲的な操作によって、結果的に元の作品にあった特色が弱められたことは否定できない。それが時代と、演劇というジャンルの課す制限であった。
 そして1878年初頭、ようやく書き直された脚本は、『レチュヌ伯爵夫人』 La Comtesse de Rhétune と題を改められることになった。
 ではこの原稿をどうするか。そこから「劇作家」モーパッサンは本格的に、劇場とその支配人とに直面することになり、演劇デビューを目論む文学青年誰もが体験するだろう、あの困難を身をもって知ることになる。
 まず、師フロベールは自らコメディー・フランセーズ支配人ペランに原稿を手渡すことを請け負ってくれる。一方で先輩作家ゾラが、同劇場の女優サラ・ベルナールに、口をきく役割を引き受けてくれた。
 ゾラとサラとの関係が生まれたのは前年(1877)5月。『獲物の分け前』を読んだ彼女が、ぜひ自分用に劇にしてくれと作者に頼んだのがきっかけだった(芝居が実際に書かれるのはずっと後のことで、サラが主演することはなかった)。彼女がモーパッサンの劇を気に入れば、支配人にプッシュしてくれるだろうと期待してのことだった。 ついでに言えば、1872年、ルイ・ブイエの遺作『マドモワゼル・アイセ』 Mademoiselle Aïssé を彼女が主役で演じているが、上演に奔走したフロベールが演出にも関わっていたから、フロベールも早くから彼女を知っていたことになる。

 モーパッサンは2月に入って、自分自身でサラと顔を合わせている。彼女は大変に親切で親切すぎるほどだった、と彼は報告している(2月15日付書簡)。もっとも、彼女は一幕しか読んでいないというけれど、それさえ本当に読んだのだろうか? いずれにせよ支配人に勧める旨を彼女は請け負ったという。ただし、当時の彼女に脚本の決定権があった訳ではなかった。
 実際のところ、話はそれっきりで終わってしまったようだ。4月に入って最終的な却下の通知が届き、支配人ペランの言うところでは「二幕が暴力的で残酷すぎる」から、この芝居を受け入れるような劇場はないだろう、それが公式な返答だった(4月3日付書簡)。「そうだろうと思っていたから全然驚かないけれど」とモーパッサンはコメントを残している。

 モーパッサンとサラとの出会いはその後進展することもないまま終わってしまった。後世の読者にしてみれば、そのことはいささか残念でもある。
 話としてはそれだけなのだけれど、一点注意しておきたいことがあるとすれば、それは、まさしく1878年2月頃、サラは『エルナニ』の上演の真最中だったということだ。サラがドニャ・ソルを演じ、一方でエルナニ役はこれも看板役者のムネ・シュリー。当時ヴィクトール・ユゴーは第三共和制のフランスに凱旋帰国以来、文壇の最重鎮として誰からも一目置かれる存在であったし、ロマン主義の代表作『エルナニ』の上演は大ヒットしないはずがなかった。実際、1877年11月21日初演後、公演回数は116回を数えるものとなる。 間違いなく、サラ・ベルナールは当時パリで最も評判の高い女優だった。しかも、いやしかし、彼女は当代きってのロマン派女優の名をほしいままにしていたのである。
 ここにモーパッサンの戦略は致命的な問題をはらんでいたように思われる。確かに、モーパッサン版マクベス夫人ともいうべきレチュヌ伯爵夫人は、ある意味でサラ・ベルナールにこそ相応しい役柄であるように、考えられないことはない。執筆当時から、作者がヒロインにサラを想定していた可能性もないわけではなかろう。さらに言えば、主演に彼女を選ぶというその選択自体に、作者がこの芝居に託した野心の大きさを窺うこともできる。すなわち、ヴィクトール・ユゴーへの挑戦であり、同時に彼が築いたといっても過言ではない歴史劇というジャンルを、独自の美学によって刷新することによる、乗り越えの企図。
 問題はそこにある。モーパッサンの演劇は決定的なまでにロマン主義と決裂しているし、その決裂にこそ本作品の主眼はあったはずなのだ。ここにはロマン主義的な崇高さは存在しないし、伯爵夫人は個人の欲望の成就のために、一切の道徳的理念を顧みない女性だ。ロマン主義が声高に主張した理念の一切を欺瞞の名の下に否定し、真の人間のありようをあからさまなまでに示して見せること。レアリスムの、あるいは自然主義的とも言える理念がこの作品を構成するのであり、おまけに言えば、ヒロインの遺体は最後に窓の外に放り出されるのだ。
 そんな芝居を、サラが(ちゃんと読んだら)喜ぶはずはなかっただろう。
 当時最も有名な女優に主役を当てるという、いわば商業的目論みと、作品の性質という美学的意図とは見事なまでに矛盾している。もちろん、根本的な問題はモーパッサンの戯曲の質にあったということは否定できない。しかしここにも、演劇デビューを目指す青年作家の直面する困難の一面が、現われているのではないだろうか。

 もしもモーパッサンが『エルナニ』のような芝居を書いていて、サラがぞっこん惚れ込んでいたなら、ドレや後のジャン・リシュパンのような体験を、彼がすることになったかもしれない、と想像してみるのは楽しくなくもない(当時、モーパッサン27歳、サラは33歳)。その関係が良好に持続するはずがなかっただろうというのも、また想像に難くないことだけれども。
 ところで、かつての恨みがあってかなかってか、1881年サラが凱旋帰国を果たした折に、モーパッサンは時評文を記し、庶民の熱狂的な歓迎を諷刺している。

私はこの偉大な才能を持った女優を愛しているが、その才能はもっぱら声にあり、おとぎ話の中の猫の魔力が尻尾にあるようなものである。この声は、人の言うところでは、黄金の声である。ここには、その声が所有者に多くの収益をもたらすということを示すイメージがあると私は思う。それは、ロベール・マケール風に、繊細な芸術家が自分の声で自分の望むものを作り出すのではなく、反対に、彼女が唯一の仕方で、いつでも同じように、あらゆる芝居、あらゆる役柄で、その声を用いるからなのである。
(「熱狂と大げさな演技」、『ゴーロワ』紙、1881年5月19日。
« Enthousiasme et cabotinage », Le Gaulois, 19 mai 1881, in Guy de Maupassant, Chroniques, U.G.E., coll. « 10/18 », 1980, t. I, p. 224.)

 はっきり言えば、「大根役者」だというのである。そう記しながら、彼はかつての彼女との対面を、どのように思い返していたのだろう。ところで、彼のお気に入りと言えばマダム・パスカという女優で、彼女については称賛の評論を残している。

 最後に、その「黄金の声」を聴けないものかとネットで探してみると、
Terres de femmes: 14 février 1907/Sarah Bernhardt professeur au Conservatoire
 見つかったのは、1903年収録の『フェードル』の一節。
 これが「黄金の声」なのかと多くの人は驚くだろう。録音のせいなのか、あるいは我々の抱く期待が大きすぎるのか。
 いずれにせよ、実際に、彼女の演じる『椿姫』に客席が涙に溢れたという時代があった。20世紀に入って映画・テレビが普及する中で、演技に対する人々の趣向が19世紀とは大きく異なるものになったということだけは、間違いないだろうし、当時、彼女の声が「黄金」のように鳴り響いたという、その事実も、決して変わることはないのだ。
(21/11/2007)




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